ボランティア活動が嫌い

 

タイトルの通り、僕はボランティア活動が嫌いだ。

ボランティアサークルや国際交流サークルが多くの大学にあるし、ユニセフやあしなが募金などといった、ボランティアの団体も数多く存在する。テレビ番組では、24時間テレビがチャリティー番組として毎年24時間ぶっ通しで放送されている。これらをここではまとめて「ボランティア」と呼ぶことにしたい。

なぜボランティアが嫌いかと言うと理由は簡単で、驕っているからだ。

っていうか嘘を言わなかったり、綺麗事の謳わないボランティアなんて存在するのだろうか。国際交流サークルで靴とかを届けている大学生たちは、表面上は「貧しい子供たちのため」に活動をしているらしい。でも現実は違い、ほとんどの学生たちは就活のためにボランティア活動をしている。要は面接のための話題作りだ。そういう人種たちは、就活が終わった途端にボランティアのことなど忘れてしまう。飲み会の写真に「#人生一度きり」など寒いタグをこれでもかと添付してインスタにアップし出す。そんな当たり前のことほざいといてドヤ顔すんな。

たしかに、ほかの純粋な気持ちで活動をしている人もおそらくいるだろう。でも、それは絶対に「おごり」ではないと言い切れるだろうか。

「他人のために何かをする」ということは、「他人のために自分の時間を使う」ということだ。これは、どんなにその「他人」のことを想っていたとしても、ある程度は苦労が伴う。現に、他人のためにやってあげたことは、どんなに100%善意でやったことだとしても、その人からの感謝がないと、気分を悪くするだろう。

もししたことをそのされた人が望んでいたら感謝するだろうが、したことが全く望まれていなかった場合は地獄だ。例えば、AさんがジーパンをBさんにあげたとしよう。AさんはBさんに合うだろう、と思って真剣に選んだのだ。しかし、Bさんはジーパンが嫌いで、日常では全くジーパンを穿かなかった。だから、Bさんはジーパンをもらっても、歯切れの悪い「ありがとう」しか言えなかった。するとAさんは「あんまり嬉しくなかったかな」だったりひょっとしたら「せっかくあげたのになんだその態度は」などと思うかもしれない。この場合、AさんもBさんも満足感を得ることができない。もちろんリサーチ不足などの理由もあるだろう。だが、他人からの反応がなければ得られない満足感というのがそもそも脆弱なのだ。

 

少し話を変えて、僕が救われた一件のツイートの話をしよう。

今泉力哉 on Twitter: "誰かを勝手に救うのが映画のよさだと思っています。救おうとした瞬間におごりになるので。前から言ってるけど。勝手に救われる、以外の救いは存在しない。"

これは、偶然ツイッターで流れてきた、「愛はなんだ」などを撮った映画監督のツイートだ。これにはハッとさせられた。

僕はずっと「誰かを救いたい」という意思がとても強かった。ONE PIECEが大好きだったから誰かにとってのヒーローになりたかったし、誰かに喜んでもらいたかった。でもどこかで、自信のない自分の存在証明の手段でもあったかもしれない。誰かに必要とされることで承認欲求を満たしていたのかもしれない。

だから、誰かにやってあげたことで感謝されないとすごく不機嫌になったし、悲しい気持ちになった。感謝されるのが当たり前だと思っていたからだ。でも当たり前ではないということを知った。この世には感情表現が下手な人もいれば、そういうものをありがた迷惑に思う人もいる。場面や状況によっても、あげたものが逆に荷物になってしまうこともあるのだ。

救おうとした途端に何かを求めてしまう。これが「おごり」の怖さである。

じゃあ人は誰かを救うことができないのか、と言うとそうではない。「勝手に」救ってしまえばいいのだ。

これが簡単に思えて実は難しい。まず、勝手に誰かを救うためには、物事を主体的に楽しまなくてはいけない。幸福感を他人からの感謝や反応で得ないで、自分一人で幸福感を得ないといけないのだ。

これだけなら自分一人が楽しんでいればまだ簡単だが、目的は誰かを勝手に救うことなので、他人を巻き込まないといけない。これを実現するためには、圧倒的なコンテンツ力と、他人を救うための絶対的な「正義」が必要となる。しかも両方他人に迎合したものではなく、純粋に自分の内側から出てくるものでなくてはいけない。言い換えると、無意識下になければいけない、と言うことだ。

例えば、恋人にフラれた人がいるとしよう。フラれた人に対して、誰かが優しい言葉だったりをかけるだろう。しかし、その人のためを思って言った言葉は、ある程度その人が喜びそうなことや元気になりそうな言葉を選んで声をかけるだろう。それに、自分自身にも何らかの見返りがないと損した気分になる。これはおごりである。

一方で、フラれたことを知らないでその人にかけた言葉は、おごり一切なしの、純粋な自分の言葉だ。この場合、もしフラれた人が「救われた」と後に告げても、言葉をかけた人はそこで初めて救ってしまったことを知るだろう。なぜなら無意識に発した言葉だからだ。これが純粋な「救い」であると言うことなのだろう。

人に迎合しない分、どんな人がどんなことで救われるか全くわからないので、救うことが格段に難しくなる。しかも、結果誰がそれによって救われたかもわからないので、他人の反応による承認欲求を得ることもできない。

このツイートから、自分のやりたいことをやる。無理に他人を救おうとしない。そんなことを教わった。自分の本当にやりたいことだけをやろうと前向きになれたし、気持ちも楽になった。他人の顔色を伺うことも少なくなったし。つまりはこの人に救われた。でもこの人は僕が救われたことなんて絶対知ることはないだろう。この形が真の「救い」なのだ。

僕は本当の意味で誰かを救いたい。そのためには誰かを救ってはいけないんだ。そんなことを思いながら最近は生活している。僕の勝手にやったことで勝手に誰かが救われてればいいなあーと思う。それくらい誰かを救うのは気楽でいいのだ。